中国文明の圧倒的な影響を受け、言語体系が違う日本で話されていた言語の音を、漢字固有の意味を無視して、日本語音を写し取って記録として残したのが「万葉仮名」である。現代の我々が使う日本語は、漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字表記によって言葉と音があらわされる。ローマ字を除く日本語としての文字の表記法が定着していく過程をまとめたものである。日本語の大家の努力を紹介しながら日本語通史を説くのがこの書である。
日本を含む東アジア諸国や西域諸国の言語は中国語と全く異なるが、文字を持たなかったため、記録するために漢字を使った。文字の使用は国の成立と強く結び付いている。国のかたち、制度、法治などを見習わざるを得なかった。そのひとつの表れが、聖徳太子の「十七条憲法」であり、内外に文明国であることを表明することであったと説く。中国文明・文化を取り入れようとした過程で、日本語自体を発展させていったことの証でもある。
漢文仏典の解釈のための記号として使われた「朱点」(漢字の一片を使用)が「カタカナ(片仮名)」として独立、女性が使用した漢字の草書と発生を同じくする「ひらがな(平仮名)」が確立した。漢字あり、ひらがなあり、カタカナありと、その面倒さが実は文明を導入し、咀嚼するための知的な翻訳の偉大な発明品だった。カタカナは漢文の朱点に使われたのを起こりとして、「仏教の経典や漢文を訓読して行くための補助手段として産み出され」、公文書などの公的なものに使われた。
サンスクリット(梵語)で書かれた仏典を漢訳したのは西域僧の鳩摩羅什なのであるが、空海は逆に原点のサンスクリットで書かれた仏典のマントーラ(真言)を研究する。中国語を通してのサンスクリット語で書かれた仏典の理解から、中国語を通さずにサンスクリット語で書かれた仏典を直接理解しようという方向性が、さらに遣唐使の廃止によって国語の発展が進み、ひらがな、カタカナの成立の土壌を作ると説く。確かにサンスクリットの音の並べ方が、日本語のカサタナハマヤラの順に近い。
10世紀末~11世紀中頃に、仏教とは違う和歌の世界ではひらがなが使われ、無常観を歌った「いろは歌」の定着するようになる。藤原定家らによって書き方の模範が整備されて日本人の情緒的なことや私的なことに使われることが多かった。いろは歌の成立は中国の千字文で漢字の重複がないところから、順番をつける目的も睨んでいたそうであるから不思議である。
五十音図の成立も11世紀頃、サンスクリット語を解読する学問「悉曇学」の専門家である天台宗の僧侶明覚がサンスクリット語に基づいてカタカナを並べ、最終的な成立は江戸時代に本居宣長らによって整備されたものであるという。そんなことは全然知らなかった。
そして、明治維新になり日本最初の日本語辞典が大槻文彦という国語学者によって五十音順で作成された。しかし、一般の生活の中ではまだまだいろは歌(イロハ順)が主流で、五十音順は仏教学など一部の専門書でしか使われていなかったという。<いろは>は情緒の世界のものである。これに対し、<アイウエオ>という<カタカナ>は、役人が漢文体を使って公式文書を書く時に使われるような、システムの世界を構築するものである。
日本語は本当に忙しい言語ではある。
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