「民主主義社会には二つの概念があり、前者は大衆が情報にアクセスでき、意志決定に参加し影響を及ぼすことが出来る社会のことをいい、後者は大衆を意思決定に参加させず、情報のアクセスは巧妙に管理される社会のことである」と最初にいきなり現在の「民主主義」について、疑義を突き付ける。残念ながら、現代社会の大衆は「民主主義」は前者と漠然と思っているが、実は大半が後者であることを自覚していないと説く。
著者はこれを社会民主主義と呼ぶ。典型的な例として、日本では江戸時代の「知らしめず、寄らしめず」という武士階級の政治倫理に類似する。現代社会では、情報のアクセスを「巧みに管理する道具として使われているのがメディア」であると断じる。情報は大衆に公開されており、意思決定も大衆が参加できると思いこませているが、一部の支配・管理者はメディアという広報機関を使って巧みにコントロールするのである。
読んだ瞬間は「ん!」と思ったが、今まで日本で起きた出来事をこの視点から見ると、あまりに符合するものが多く空恐ろしくなった。それが日本だけでなく、「民主主義」のお手本と教わってきたアメリカにおいてはもっと高度にコントロールされるとの指摘はさらに驚いた。現代社会(政治)におけるメディアの役割に目を向ければ、我々の大衆としての立場が見えてくる。支配・管理者は大衆の目から都合の悪い事実を隠すことが巧妙である。
アメリカ国内におけるメディア管理の実態は、支配者が自国民を蚊帳の外において、自分の企みの真の目的を悟られず邪魔されず遂行し利益を享受するために、いかにメディア支配が重要かということを示す。「メディアは支配者(資本)の広報係りとして重視され管理されている。決して大衆側の見方ではない。大衆の痴呆化には役立っているが、大衆の智恵袋にはなっていない。」と説く。日本も全く同じではないか!
著者の凄いところは、このメディアと高名な知識人を容赦なく直截的に批判する。アメリカの従属国としての日本の犯罪的協力についても、当然情け容赦ない(辺見庸氏のインタビューで)。それでも、アメリカの制度は「民主主義」であると主張する。メディアを使った巧みな情報管理にしても、大衆自らが高い意識を持てば冒頭の「民主主義社会」(大衆が情報にアクセスでき、意思決定に参加し影響を及ぼすことが出来る)にすることができると説く。
メディアの最も巧妙な仕組みは、大衆に「公益」を信じさせることである。自らが自らを律しさせることである。アメリカでは公益の前には階級も利害関係さえもなくなる。支配者が考えていることは、「とまどえる群れ」である大衆には、意志決定に参加させず「観客」になってもらうのである。「公益」を信じさせれば自らが意志決定に参加したと錯覚して反対が起きることがない。
「民主主義社会」での組織的宣伝で世論を誘導する広報産業を開拓したのはアメリカである。目的は一貫して「大衆の考えを操作する」ことであった。「公益」の旗印のもと、誰もが反対できないスローガン、誰もが賛成するスローガン即ち星条旗のもとに団結することであった。このスローガンでストライキ抑圧、赤狩りが行われ、テレビ新聞には特定のメッセージだけを流させるので大衆はそれ以外の選択肢を求めないのである。
もし9.11を第三者が公正な目で検証すれば、アメリカのウソ報道は簡単に見破られるはずだという著者は、第三者として「火星人ジャーナリストに仮託した」文章である。エルサルバドル、アフガニスタン、ハイチ、ニカラグア、パレスチナ、ヨルダンなどで行ったアメリカとその同盟の国家テロと残虐行為はひた隠しされた。
最終章の辺見庸氏のインタビューでは、「米国における言論弾圧など、他の独裁国家や軍事政権下の社会に比べればどうと言う事はない、知識人は泣きごとを言う前に出来ることをやっていないのではないかと厳しく知識人を指弾する。日本のメディア自己規制などは戦う前の降伏である。戦う意志すら持たない者の安楽死、自己欺瞞である。」と断じている。ノーム・チョムスキーとは凄い人である。
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